都市環境学へのきっかけ
私が生まれたのは瀬戸内海の小さな島(面積3.68km2)である。そこで高校を卒業するまでを過ごした。何故に田舎で生まれ育った人間が都市の研究に踏み込んだのか。私が建築を目指したきっかけは、高校の頃、父から譲り受けた三島由紀夫の金閣寺を読んだことである。金閣寺を読み、京都の寺社仏閣に興味を持ち、伝統建築を学びたくて、建築を目指した。子供頃から比較的、美術や工作などは好きな方であり、受験科目にデッサンがあったが違和感はなかった。
運良く、東京の大学に入学し、私の建築の学びが始まった(1981年4月)。しかし、京都のように伝統建築にふれる機会は少なく、コンクリートの建物や超高層ビルに囲まれた東京での暮らしの中で、次第に建築そのもののデザインに対する興味は小さくなっていった。もちろんデザインに対する才能もなかったが。
そんな時、興味深い講義に出会った。それは、当時3年生後期に開講されていた「広域環境論」である。
都市環境工学という名前ではなかったが、担当教員は、恩師、尾島俊雄先生であった。この東京という巨大都市空間において、環境から建築や都市を考える観点に驚いた。瀬戸内の自然にあふれた島で育った私は、都会(都市)とは環境を諦めるというか、環境を犠牲にすることで得られる空間と思っていたからである。
真っ向から、相矛盾する自然と人工空間の調和を唱える、尾島先生の分野にふれ、学部4年次の卒業研究配属で尾島研究室の門戸を叩いたのが、私と都市環境学の始まりである。

山と超高層ビル
瀬戸内の風景は多島美(たとうび)と称されている。これは海に浮かぶ数多い島々の風景を称したものであり、雲海からのぞく山々の風景に似ており、初めて目にする都会の人々はその美しさに驚いたものである。私が生まれ育った島は、南北に長く、北に立石山(たていしやま)、南に鉢巻山(はちまきやま)そびえ、それぞれの標高は、立石が139m、鉢巻が142mである。この二つの山も瀬戸内の多島美を成している。そして、私にとっては、雄大にそびえ立つ山であった。
また、立石山は別名観音山(かんのんさん)と呼ばれ、宗教的な意味合いを持っていた。その山頂には、古代の祭祀遺跡の磐座(いわくら)がある。これは、日本に古くからある自然崇拝の巨石遺跡であり、弥生系高地性遺跡といわれている。子供の頃、よく、この石舞台から周辺の島々(因島、弓削島、佐島、岩城島、生口島など)を眺めていたものである。
私が大学2年生の秋(1982年10月)に、西新宿の超高層街に「NSビル」が竣工した。地上30階、1階から最上階までが吹き抜け、屋根はガラス張りで、アトリウムには世界一大きい振り子時計が設置されていた。巨大なアトリウムは開放的であり、オフィスは吹き抜けを囲み、上階の2フロアが飲食店街であった。空中廊下もあり、ここから見下ろす眺めに建築技術を感じたものだった。建築を学ぶ学生には、展望エレベーター(当時レインボーカラー)でこの飲食店街に登ることが楽しみであった。
しかし、島出身の私は、この眺めに違和感を覚えたものであった。NSビルの高さは133mと、立石山とほとんど同じ高さである。子供の頃からそびえ立っていた山と同じ高さの構築物を人間が建設できることを感嘆したが、実際に感じる体感スケールや上からの眺めの違いは何なのだろうか。田舎に帰る度、立石山を眺めても未だに実感できないでいる。

企業城下町と地方の活性
現在、人口減少と少子高齢化など、地方の市町村(自治体)の衰退が大きな社会問題となっている。私が生まれ育った島も、私が居た頃の人口は3,300人程であったが、現在は1,800人程度(約55%)である。私が学んだ小学校も一学年50人~70人、全校360名程の子供たちで賑わっていたが、今は全校で30名程度のようだ。授業の合間の休み時間に校庭で多くの子供が遊んでいた光景がなつかしい。
この人口減少の要因は、働ける産業基盤が無いことにある。瀬戸内の小さな島なので、一般に想像されるのは、漁業か農家であろう。だが、幸いなことに、隣島の因島(いんのしま)に、当時世界有数の造船会社である日立造船の工場があった。それはそれは巨大なタンカーが造られ、近隣の島々の人たちがこの造船所で働いていた。造船所がなければ、私も東京の大学で学べずにいたであろう。そのため地方における産業基盤の重要性を何より実感している。
その工場も私が大学院の修士課程を修了する頃に、因島から撤退をし始める。日本の高度経済成長期を支えた重化学産業の拠点が韓国や中国に移り始めた時期と重なる。日本各地における大企業の工場撤退は、企業城下町という言葉に象徴された。かくゆう私たちの島でも、働く場のみならず、店舗、映画館、病院など多くの生活施設が造船所に支えられていた。残念ながら、今も造船所ほどのしっかりした産業基盤を確保できていないでいる。
子供頃、夏休みや冬休みなどに、弁当を持ち、映画館で上映されるゴジラシリーズを見るのが楽しみであった。そして、映画の本編上映前に、必ずスポンサーである日立造船の進水式の映像が数分流れた。水飛沫をあげて海に流れ込むタンカーの雄姿と色とりどりの風船がくす玉の中から空へ舞い上がる映像。その映像を誇らしく見ていた子供時代を思い起こす度に、何よりも働く場の創生なくして、地方の活性化は困難な道のりである、と思うのである。
都市インフラ?島インフラ?
私たちの研究分野は都市インフラに関わっている。都市インフラは、都市活動を支える各種基盤施設であり、建築分野では住宅やビルが機能するために必要である、電気、ガス、水道、下水道などの施設があたる。
都会で暮らす上で、コンセントにさせば電気が使え、スイッチをいれればお湯が沸き、蛇口をひねれば水が出るし、レバーを引けば汚物は消えていく、当たり前の姿である。日常で、その先のインフラを意識することは無かったのではないだろうか。そのような意識が一変したのが東日本大震災である。多くの人々が電力供給というインフラに大きく依存していたことを実感したのではないだろうか。斯く言う私も意識が薄れていた一人である。
私が生まれ育ったのは島である。したがって、子供のころは電気、ガス、水道、下水道を身近に意識していた。電気は、島々を渡る送電線があり、変電所も身近にあった。雷や強風で、よく停電したものだった。夜、灯りが消えると、外に出て、周りの家に電気が付いているかを確認し、周りの家の灯りも消えていると、停電かと安心したものだった。ガスはプロパンガスで、定期的に交換されていた。水道は無く井戸だった。今思えば不思議であるが、一軒に一つ井戸がある訳ではなく、隣近所で一つの井戸を使っていた。そこから勝手に、家々にパイプを引いてポンプで水を配っていた。当然、下水道も無く、雑排水は下水路に流し、汚物は汲み取り式であった。
このように、子供後頃から日々の暮らしが、そのような装置によって成り立っていることを感じていたものだった。住宅もビルも都市インフラに依存している。建築を考える上で都市インフラまで含んだ全体システムで考えることも都市環境学の重要な観点である。